私がこの頃ずっと気になっている本のタイトルです。(はよ買って読めよって感じなんですが)
韓国で大ヒットして、日本でも翻訳され大反響を呼んでいるこのエッセイですが、この韓国人著者は40代を目前にして退職し、一生懸命生きることをやめたことをきっかけに書いたそう。
この、なんだかずっと大変で、広いはずなのに狭くて、気を抜いたら自分の居場所とか意義とかを見失ってしまいそうになる世界で、「あえて」一生懸命生きることをやめてみた、というこの著者の考え方、多分みんなが心の奥底で求めていたものなのかもしれません。だからこそこの強烈な「あやうく一生懸命生きるところだった」というタイトルに惹かれ、手に取る人が多く、共感を呼んだのではないかと思います。
私が本を選ぶときは本当に適当で、さらさら~っと本棚を見て、このタイトル気になる!表紙が好み!とかそんなんなんです。この本の強烈なタイトルと、個性的な表紙絵に惹かれまして、さらに韓国の有名アイドルをも買い求め、ベストセラーになったというのだから気になるのもおかしくないですよね。
早く読みたいな。
(そんなことより受験期のストレス発散の一環として本の買い溜めをしていたためにいっぱい未読の本が部屋にあって、正直本にごめんなさいの気持でいっぱいです。今はあまり当時の気持ちに共感して読み進める勇気がないですね。笑)
「あやうく一生懸命生きるところだった」
私は一度、(一度ではないけれども)母から物凄い諭されたことがあるんです。諭されたというか怒られたというか、𠮟責の一環だったというか。
「完璧主義やめなさい」って。
自分がいつも全部なんでも中途半端で、なんでも途中でやめてしまうから、それまで自分のことを完璧主義だなんて全くもって思っていませんでした。むしろその対称にいるのが私だと思っていたんです。
え?どういうこと?となった私に母は
「こうしないとあかん」って思ってるやろ。そうじゃないとあかんって思い込んで、やってること多いやろ。ほんでうまくいかんかったら嫌になってやめるんやろ。細かいところまでこだわりたくなるんやろ。ほんでちょっとうまくいかんかったからって投げ出すやろ。って。
自分の好きなことをやりなさい、やりたいようにやりなさい。こうしないとあかんっていうのはないねん。自分で決めつけとるだけ。
言われるまで気が付かなかった自分の思考回路でした。
でも言われて気づいたんです。
なんだか狭いって思ってたこの世界。なんだか生きづらい、なんだかしんどくて大変で、「普通」に生きることがこんなにも大変なのかと感じていた自分がいました。
でも気づいたんです。その原因は自分で勝手に作っていたということに。
「こうでないとあかん」そう思うことは確かに多く、こうあるべきだ、こうするべきだ、常にこんな考え方だったんです。
だからこそ、全く柔軟じゃなかったし、人の意見を取り入れるのが苦手でした。自分の「こうあるべき」を覆されるのがこわかった。その先に何が起こるかなんて想像ができなくなるからです。
自分の「こうあるべき」というのの先は大体なんとなく、読むことができたんです。こうなるなって。でもそれを誰かによって覆されようものならそのリスクマネジメントができなくなってしまう…そんな恐怖もありまして、なかなかに固い、固執した考え方をしていたのだと思います。
それもこれも結構かなり、日本の教育によって形作られた考え方なのかなと思ったり。(責任転嫁)
こうしないと先生に怒られる、とかこうしたら先生が喜ぶ、とか分かってたし、こういう時はこう振舞っておけば大人から褒めてもらえる、とかこの場合はこうしていたら認めてもらえる、とか。そんな「無難」な「賢い」生き方というか、「普通」を強要されるような(されてないけどされてると感じていた)こども時代を過ごした(気がする)ので、余計に他の人に比べて、「こうあるべきだ」が強かったんだと思います。
小5くらいから普通に生きるのが何だかしんどかったし、家でも学校でも常に気を張っているみたいな状態だったし、この八方美人であろうとする自分に対してかなり悩んでいた時期もありました。
小学生の時の宿題はとっとと終わらせて(今の私からしたら全然考えられないな…遠目)普段の宿題も毎日全力でした。自習学習ノートは人より多くやっていたし(これも今の私からしたら考えられんな…)漢字ノートも出された宿題の倍をやっていたし、なんかよくわからん変な努力?親や先生から褒めてもらえて、認めてもらうための?努力??をがんばっていたのかななんて思います。(健気すぎるな)
でも中学生になって、やめてみたんです。というか普通に、急に英語ぶっこまれ初めて、宿題のやり方がわからんって状態に置かれて、何をどうしたら宿題ができるのか、宿題のシステムが分からん過ぎて、でもその時の私は頑張ることをやめたんです。(絶対このタイミングじゃないやろ…)急に意味わからんスピードでappleくらいしか知らんような外国語を学ばされて普通についてけなかったというのもあったんですけど、なんだか中学生になって急にふっとやめちゃったんです。(担任制じゃなく教科制になったのも大きな理由かも)
頑張ることをやめたんですよね。それから堕落もいいところです。高校生になるとついに提出物を殆ど出さなくなりまして、課題もやってこず、当てられてその場しのぎで考えるという生活を繰り返しました。アセアセ
どうせ卒業できるのはわかっていたし、大学受験でも使うタイミングもなかったので評定なんて全く気にせずに過ごしていました。まああああああひどいはひどかったんかな?(確かに順位とか見て少しショック受けてたけどそりゃそうやん!!って謎のポジティブが勝ってた)でも今では全く覚えてないくらいどうでもよくて、皆勤賞じゃなくても別にどうでもよかった。(小学生の時は皆勤にこだわってた)
そんな頑張ることをやめた自分が大学生になって、何が困ってるって、ぎっりぎりで単位を取ろうとしていることですよね、間違いなく。(笑)
あんな口酸っぱく課題出す癖をつけなさい、大学入って困る!って言われ続けてたのにその癖をつけないまま卒業したもんだから案の定…って感じ。(高校時代同じような境遇だった友人たちはみんな火を吐きそうな勢いで同じ境遇にいるの聞いて少し安心してるもんな…)
なんの話???
でも頑張ることをやめて、大人の顔色を伺うことも減ってから、私の性格は断然変わりまして、誰かを認めることができるようになったし、人の考えも柔軟に取り入れられるようになりました!
なにより、頑張ること、こうあるべき、というのを人に押し付けなくなったし、自分が狭いと感じていた世界を広げることができた気がします。
今まで(無意識的に、ですが)自分で自分を小さく制限していて、自分で世界を狭く見せていたことに気が付いたんです。母からの指摘を受けてその考えを改めようと意識的に口癖を変えたり思考を変えたりしてみると、案外生きることへの大変さを感じることが少なくなったんです。
この本のタイトルを見て、この母からの指摘を受けて、自分で自分を縛っていた縄をほどいたような感覚を覚えたのでつい、こんなに長々と書いてしまいました。
あんな時代の自分、えらかったなぁって。(笑)