avectoi17’s blog

関西の大学3年生!私の思惑ブログ。

無理して頑張りなさい

アスファルトの間から咲くど根性ノースボールの花をみて。
『無理して頑張りなさい』
イチローさんから度会隆輝さんへエールの言葉

人生そんなときもある!頑張れ!

 

昨日、突然ど根性ノースボールの花の写真と一緒に送られてきた。

 

無理して頑張りなさい、かーー

今の時代、「頑張れ」ということ自体に少しばかりの躊躇いを覚えるのは私だけだろうか。積極的不登校?をはじめ、多様性が謳われるこの時代。だからこそ自分の価値観に基づいて軽々しく発言するのが何かと憚れる。

この夏、小学校教師をしている友人から、「最近の小学生はクラスに1人不登校の子がいても普通」「小学生の仲でもSNSに関するトラブルが起こってる」などと聞いて衝撃を受けた。私が小学生の時は皆勤賞を目指していたし、行きたくない~と嘆いていても親から行くよう家から追い出され、しぶしぶ学校に行くと結局友だちと楽しく過ごせて、帰宅するころには朝の行きたくないゾーンにいた自分をすっかり忘れてしまっているほどだった。だから私にとって通学することは当たり前だったし、その経験のおかげで強くなれた気がしているし、朝はつらいけど結局頑張って家から出て人に会うと元気になれるというのを知れたからこそ、その学びが今も生きている気がする。

 

でも考えてみるとそういう人ばっかりじゃないのも事実で。

 

でもその世界線を知らずして不登校を認めてしまうのは結局将来の可能性を狭めているのでは…選択肢の幅を狭めてしまっているのでは…

 

でもその選択をしたからこそ新たな可能性が開けるかもしれないという期待があるのも確か。

 

こう考え出すとどうしても一人でぐるぐるしてしまう。

 

 

 

多様性に対して寛容な母。

私はどうしても楽なほうに流れたくなる性分で、土壇場にならないと頑張れないというそんなとてつもなく大変な娘をしてると思う。母からすると本当に頭痛の種だと思うし、ヒヤヒヤとさせられるスリル満点アトラクションのような存在だろう。

 

そんな母と私の関係性だが、いつも間違いなく言ってくれるのは「一番の味方だから、やりたいことをやりなさい」

本当にありがたい限り。これまでも大変なときとか辛いときとかたくさんあったけど、結局全部何とかなってきた。

 

無理して頑張ろうと思う。

元気にしてるかな、などと要らん心配しちゃう…

 

あなたと連絡を取らなくなってもう1か月以上が経つけど、元気にしてるかなくらいには気になってる。気になるというより心配。寒いのが苦手で、たぶんきっとあれこれと多忙にしていて、体調を崩しやすいあなたのことだから無理してるんじゃないかって。

 

いらない心配って言われそうだけども…

 

もうきっと、これから当分は、なにかに困っても私を頼ってくれないんだろうなって思うと、なんか辛いかも…わがままだねほんと…

いつでも連絡くれていいんだからね、とか寒いから身体に気を付けるんだよ、とかちゃんと家に帰ってベッドであったかくして寝るんだよ、とか全部言いたかったな。

 

私の恋愛観

雛形の恋愛観はSNSが発達した今だからこそある程度形成されてるんじゃないかと思う。私もそれを基にオリジナルを加えていくって過程にいることに後々気が付いたから外部から受ける影響というか、現代社会に溢れる情報量の多さというかに驚いた。

 

「恋愛は自分の人生をより豊かにするもの」

これが根本にある人が多いんじゃないかな。私もこれには共感で。

人と関わるとか、人間関係を築くとかって本当に骨折りな行動だと思っていて、恋愛関係になるって過程をわざわざ経てまで自分がストレスを感じたり辛い思いをしたりするのはよくない恋愛だなって思う。

 

「自分だけで十分幸せ。恋愛は+αの幸せ。」

で、もうちょっとかみ砕くとこういうことになるっていうのもとてもよく理解ができる。その相手と一緒にいると幸せなことが多くて、一緒にいるだけで安心できて居心地が良くて、なにより一番の味方がいることの心強さが大事なんだと思う。

 

私はそんなに強くないから「相手に依存をするな」というのは首をかしげてしまう。

相手に依存してなんぼというか、完全に依存してしまうのは本当によくないことだと思うけど、そもそも依存って何なんだってなる。【依存って相手を必要としていて相手を頼って生きること】だと思うの。多くの人間は頼られたい生き物で、人から頼られることで自分の存在意義を見出したり、承認欲求を満たしたりできるやん?それを一番近くて、ただ頼るだけじゃなく「信頼できる」相手として頼る、頼ってもらうって関係性が一番だと思うのね。それが味方で居てくれる人っていう認識なんだけども。

 

うまくまとまらなくなってきたな…

 

私は相手に依存することがひとつ、恋愛関係の醍醐味だと思うのね。

その人がいないといやだ!毎日会わないとだめ!こういうのは依存というか、私は我儘だと思っていて。依存って言葉に悪い印象が付きまとってしまっているけれど、依存することは悪くないと思うし、そういう存在なしで自立するって相当強い人間じゃないとできないと思うのね。できてる人はすごいしそう言う人を否定するつもりはないけれど。

ただでさえ面倒な人間関係があるのに、その中でわざわざ一緒にいたいという理由で恋愛関係になるんだったら、私の最大の味方で居続けてくれる人がいいし、近くで見守ってくれていていざというときに全力で頼れる、助け舟を出してくれる、そんな存在がいるってことが人生にゆとりを持つための心のゆとりになるんだろうから、ある程度の依存はさせてほしいし。我儘すぎるかな。

 

それは家族や友達に求められるものじゃなくて、恋人関係にある人にだけ求められるものなんじゃないかなって思う。ある程度のわがままも受け入れてくれる人がいいな…(笑)

 

理想高~~~~~

あえて言わないやさしさ

この前先輩と話してて、あえて言わないやさしさとあえて言うやさしさについて考えた。

 

相手のことを思って苦言を申すときってあるじゃない??私の前ではいいけど他の人の前でだと都合が悪いだろうから言って気づかせてあげるとかね。

一方で、言って気づかせるのもいいけど、一番の学びになるのは自分で気づくことじゃない?だから、あえて言わないで本人が自分で気づくまで見守るとかね。

 

どっちもどっちというか、どっちも大事だと思うし、全部ケースバイケースだから結論全部やさしさだよねとはなるんだけど、その先輩はバイト先ではあえて言わないようにっていうのを徹底してるみたい。本人のためっていうのもあるけど、それよりも人間関係を大切にするっていうのが大きな目的らしい。

いくらバイトだとしても、楽しくなかったら行くのも億劫になっちゃうし、人間関係が悪かったら雰囲気も悪くなる。大体指摘されることって考えればわかることだったりいつかは気づきそうなことだったり、あるいはもう気づいてることだったりして、そこを指摘されるのって人間みんなそこまでいい気はしないよねって。指摘することであの人にこういう風に言われて…ってなるとその相手に対していい印象が減るわけだから(返上できるならまだしも、こういうのはちりつもだから…)無意識的にその相手に対して苦手意識を持つことになる。そうなると働く環境も雰囲気も落ちちゃって…って考えたら言わなくてよくね?ってなったって言ってた。

 

私はある程度早く気づいてできることを増やしてほしいって意図で(バイトなんてみんないつ辞めちゃうかわからないんだから、早く成長してもらってなんぼって思ってる)よく指摘をするんだけど、できることが増えたり仕事をする上で視野が広がったりするともっと仕事が楽しいって思える気がして。

 

 

 

ただ、それはバイトでの話であって、もう引退した団体の後輩に関してはあえて言わないやさしさを発動していたつもり。

情報を取っていくにしても自分で調べたり自分から聞いたりして主体的に動いた情報のインプットはすごく大きな意義があると思うんだけど、人から与えられた情報ってするするっと抜けていってしまうもの。自分の経験からもそう言えるからこそ、あえて見守って、助けを求められたら手を貸すという具合に関わっていた。

 

どちらのやさしさも大切なやさしさだけど、こういうどっちにする?を選択するときに、しっかり説明できるくらいの意図・根拠を用意したうえで行動していきたいな。

そうしたら気づいたときにはすごい人になっちゃってるかもなーって(笑)

諦めずちょっとずつね。

最近「思考」することをさぼっている。

楽しいことを想像するのは好きだけど、実行に移す能力も低けりゃ、それ以前にやるべきことがあるだろってなって、その楽しいことを想像する自分を全否定してしまう。

 

思考しないっていうのは楽だ。楽だけど楽な分、腐っていってる感じがする。その自覚はあるんだけど、一回楽になってしまったら、逆境に立ち向かう労力が億劫になってしまう。もっともっとやるべきことがあるはずなのに、こんな文章を綴ってる暇もないはずなのに。

 

優先順位をつけるのが苦手な私。

さぼり癖、逃げ癖のある私。

そんな自分が嫌いになりそうになるけれど、それも自分なんだと受け入れて、そんな自分をも抱えて、一緒に進んでいかないとだめなんだよね。そんな自分だけ都合よく置いていくなんてことはできないから。

 

引きずってでも連れて行こう。

ちょっとずつでいいから進んでいこう。頑張ろう。

逃げ癖のある私が変わるための決意

どうしてもやらなければならないことからとっても逃げがち。安定に逃げがち。逃げ癖のある私。どうしても直らないこのゴミみたいなクセ!!!!本当に嫌い。自分が自分のことが嫌いな大きな一つの理由。これを直したい、というのは少しうそになるかもしれない。これがいかに楽なのかを知っているから。これをやめるには相当、自分に鞭を打たなければならないから。でも今変わらなかったら、もっともっと怠惰な人間になってしまうなとも思う。

一回くらい、自分に全力で鞭うった経験は、長い人生においては絶対必要だと思う。少し遅いかもしれないけど、1月15日に決めた。この半年、これまで頑張ってきた以上に全力で頑張ろうと思う。自分の人生にしっかりと向き合って、自分の運命と過去をしっかりと見つめて、姿勢を正して胸を張って、進みたいと思う。自分をこれ以上嫌いにならないためにも、将来の自分が褒めてもらうためにも。そして後悔しないためにも。

 

そういや、私ってこれまでの人生でちゃんと頑張ってきたっていう経験がない。なくてね、困ってる。大体、受検やら部活やらで葛藤があって、挫折があって、どんどん苦しい経験を積んで、ハードルを越えて生きてきている人もある程度多いと思う。特に高学歴とか言われる人たちはかなり、自分と戦ってきた経験が豊富なのではないかと思う。
私もこんだけ頑張ったと言えるような人間になりたいし、まさに今が自分の人生と一番ちゃんと、しっかりと向き合える期間なんだと思う。「頑張った」と胸を張って言える、経験を作る最後のタイミングだと思っている。
中学受験も、大学受験も、部活も、団体活動も、全部全部それなりにやってるふりをして生きてきた私。そんな私から卒業したい。全力でやりきったという経験を、学生生活の締めに。
将来の自分に恥じない自分でいたい。がんばる。

大切に思うことの受け取り方と合致する価値観

大切にするのは下手でも、大切だって事はわかっている

 

私には大切な人もモノも、大切にしたい価値観も生き方も、それなりにわかっているつもりで。大切だってことはわかってるんだけど、大切にするのは本当に下手で。

 

感情表現も下手で、大切に思っていても傷つけてしまうこともあって、時には否定してしまうときもあるし、気分が乗らなかったら全肯定することができないってときもあって。

それでも大切にしたいと、そう思えることって幸せなことだなと思う。

 

 

 

私は大切な人を傷つけてしまうときが多々ある。自覚しているのであれば直せよと言われそうだが、そうできないときがある。まだ私は幼いみたい。とても幼いから、少しずつ周りの人たちを傷つけてしまう。幼いからという免罪符を21歳の私が使っていいのか迷ったが、幼い、未熟、という言葉以外でそれを表現することは難しかった。

 

そんな私を受容してくれる、心の優しい人たちが私の周りにずっといてくれて、本当に素敵なシェルターを作ってくれてるなと、感謝の日々だわ…

 

私もそんな風に思ってもらえるような、もう少し大人な誰かのシェルターになれたらなって思う。

 

 

 

そもそもね、大切にするのが上手って、どうやったらなれるんだろう。

人間ってみんな不器用でしょう。大切に思ってるって事実が、大切にしてるっていうのには十分すぎるんじゃないかなとか思うよね。あまりにも傲慢かな。大切に思ってるって本人が言うのであれば、それは大切にしてるって事実であって。それを受け取る側がどう思うかはまた別の「大切にする」で、そのお互いの「大切にする」の価値観が合致するかどうか、あるいは理解・受容することができるかどうかっていうのがミソなのかな、とか思ったりした。難しいね、対人関係は。