avectoi17’s blog

そのへんのENFPが思うがままに呟くところ

すごい人になったつもりになっていたのかもしれない

私は人と関わるのが好きだ。新しい価値観や私の知らない世界を知れるし、エネルギーをもらえるからだ。そして今気づいたのは、私は人との関わりを通じて、「何者かになれた」気がして、それが自分を肯定するものになっていたんじゃないかって。

 

私は常に何者かでありたいと思ってしまう。別にすごい何者かになっていなくてもいいのに、誰もそんなこと気にしていないのに。でも両親は、いや、母親からは少しばかりの期待を感じている。プレッシャー。私立中高、私立大学に進学させてもらって、他の兄弟に比べてより多くの投資を受けている身としては、もっと謙虚にもっと誰かのために、家族のために頑張らないといけないと、思ってしまう。

 

大学受験の時、私は広島の国立大学を目指していた。教育への関心を深めたかったから。でも不合格だった。合格に見合う努力をしていたかと聞かれると自信を持って頷くことはできないくらいに周りで支えてくれていた人には申し訳なく、情けないことをしたんだと、そう認識できるようになったのも本当に最近になってからのことで。当時の自分からすると頑張っていたつもりだったんだろうなって。

 

で、どたばたで後期受験ができる私立大学を探して、学部のことも何も調べないまま本当に何も調べないまま、学部の名前だけでここに出願した。リベラルアーツの学部だからこそ、自主性が問われるところに来てしまった。関西でこの大学の名前は通りやすいほう。そこに安心感があったのだろう、大学のネームバリューを親に買ってもらった。そして色んな選択をして、飛び込んだコミュニティは私なんかがいてもいいのだろうかってくらい優秀な人たちが集まる、いわゆる早慶レベルの人たちと一緒に活動した。

私の見て学ぶ、人から学ぶ、経験から学ぶってスタイルの性格からして、自分が身を置く環境のレベルが高ければ高いほどできることが増える気がしている。でもこの落とし穴は、まるで自分もすごい人になれたと過信してしまうこと。そういった環境でなんとか生きていたとしても、別に本質は変わっていなくて、私は私のままでいるというのに、すごい人たちに囲まれる環境に身を置くことで、自分もすごい人の一員だと勘違いしてしまう。そんなことないのに。

 

てなると、受験とか就活とかでとても苦労する。

自己認識と他者認識のギャップに気づく、洗礼のイベントだから。

 

でもまあ結局、なるべくしてここに導かれたのかって思うと、納得感はあるものの、過程を見ると本当に私らしく右往左往しながら答えを求めてきた軌跡がみえる。それもこれも結局周りにいるすごい人たちのおかげでたくさんの気づきを得られて進んできたわけだから、まあ、いいのか。