「たしかにいつも明日はやってくる
でももしそれがわたしの勘違いで
今日で全てが終わるのだとしたら
わたしは今日
どんなにあなたを愛しているか
伝えたい
そして
わたしたちは
忘れないようにしたい」
これはとある火災で命を落とした消防士が肌身は出さず持っていた言葉だそうです。
刺さりますね、ものすごく。
普段から素直じゃない私は(母親から素直じゃないうえに生意気な娘って言われてる)両親に対してありがとうを常に欠かしてたし、ごめんも言えなかったし、なんだか気恥ずかしくてなかなか言えなかったんです。それに自分の気持は殆ど隠してしまって、どれが本心なのか自分でも自分を欺きすぎてわからなくなっていたんですよね。
一人暮らしを始めて、両親や家族の存在が毎日のあたりまえじゃなくなってからは結構頻繁にありがとう、ごめんを言えるようになりました。
「おいしい」この言葉はなんだかなかなか言えなかった言葉でした。言えばいいのに、言ってもらえると嬉しいのに、それを知っているのに、なんだか気恥ずかしくて言えなかったんですよねこれまでは。でも言えるようになった。
当たり前が当たり前じゃなくなった時、その存在の有難さに気が付くんだなと実感しました。
アルバイトをしていて、とあるおじいさんに説教されたことがあります。(怒られたんじゃなくて教えを説かれたことがあるんです)
「お姉ちゃん、当たり前の反対は何かわかる?」って。
なんでしょう…??当たり前の反対か、普通とかいつもとかそういう感じですかね、と答えると
「当たり前の反対は“ありがたい”ってことやで」って。
なんだか説得力があった。
消防士さんの話とこのおじいさんのお話とが相まって、当たり前だと思っている、当たり前にいて、当たり前に大切な人たちには素直でいうようって思ったんですよね。ちょうど同時期に出会った言葉たちだったので。当たり前はいつ当たり前じゃなくなってもおかしくないのに、その当たり前を明日もこれからも確約しているわけじゃないのに、どうしてこういつも当たり前だと勘違いして後回しにしてしまうんだろうって考えると、やっぱり「当たり前」への「ありがたさ」を忘れているからだと思ったんです。
これからはできるだけホットな気持ちを温かいうちにお届けしたいなって思いました。特に当たり前に大切な人たち宛には。