思ったことをすぐ口に出す、表情に出す私が、あらゆることを考えて、物事を穏便に進めようとそれらを抑えていた時がある。
思ったことも考えて口に出す、表情には出さない、ってやった結果…全然うまくいかなかった。
一応最後まで守り抜きたかったけど無念にも殆ど全部言うことになっちゃって。
でも振り返るといつもそうだった。
幼いころから我慢しても結局は大喧嘩して全部言っちゃうし、親にはこれは言わないでおこう、言っちゃだめだってことも大爆発して全部言っちゃったこともある。
それが家族だろうが友達だろうが先生だろうが関係ない。
自分が正しいと思ったこと、正しくないと思ったことは主張するし、今自分がどう感じて、どう考えているのかも全部伝える。伝えないと伝わらない(伝えても伝わらないからね…)って思ってるからそうしてきた。
なのに今回も同じことをしてしまった。
珍しく我慢しようだなんて思ったものだから(いつもと慣れないことをしようとするから…)全部歯車が壊れた。
大人になった私はそんな感情論を振り回さずしても穏便に物事を進められると思ったの。
「穏便に済ませようとすると建設的な話し合いもできるけどね、穏便じゃなくなる時も大事。お互いにすっきりするし、相手の言い分もそこでやっとわかるし、言いあう時間を作ったことで気持ちも状況も落ち着くし、あの大喧嘩でわかってくれたんだって思える。穏便に済ませるだけじゃ解決できないこともあるって学んだ」
そう友達が話してくれた。
そのあとに「しぬほど言い合うことでしか得られない平和がある」と言っていた。
建設的な話合いはもちろん大事。
だけどそれを盾に自分の感情やら考えやらを隠してしまうのは違うなと思う。
穏便に済ませよう、建設的に話し合おう、だけじゃ物事うまくいかない。
なぜならそこには「ヒト」と「ヒト」が関わっているから。
人は感情を持っている。だからこそいいのに、それらを全部閉じ込めて、表面上で話をするだけじゃ全く持って無意味と言ってしまいたくなるほど。
いつもいつも感情論を振り回してると、あれ~こどもじゃないのに~ってなるけど、たまにはね、しぬほど言い合うことでお互いを理解することができるし、主張も知ることができるし、気持ちも状況も落ち着くんだろなって、そう言語化されて初めて感じた。
感情論だけじゃだめなのはわかってるけど、それを全く抜きにしてしまうのはいかがなものか、という話。
建設的な…は必須よもちろん。
人と人とが関わり続ける人社会はたまに全部いやになって投げ出したくなるけれど、それがあるからこそ人が人らしく生きられるし、幸せって言葉があるんじゃないかなって思う。一人の人間がたった一人で幸せを感じることはできないだろうから。